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June 16 转:老公!我走了!请你好好爱她!!转:老公!我走了!请你好好爱她!! 一直懒得放什么自己的故事上BLOG,不敢把自己的心情暴露给别人看,但是。。。总想说点什么,也不知道如何排遣我内心淡淡的忧伤。 习惯早上8点多一点到公司,在8:30前看些小文。夜,本是属于我的,但是午夜时分都在加班的我,只剩下清晨短短的一小段光阴可以挥霍。 我没有太多的爱情经历,但我喜欢看别人的爱情,微笑,眼泪,都很美好,也很无奈,让人害怕。早上看到邮箱有个朋友转给我的文章,看完后,感动,无奈,我的视线一直是模糊的。想起网上一个朋友曾经的MSN名字:无处痛哭。是啊,突然想到,如果我想放声大哭,何处是属于我一个人的世界?
雪之心情:平静后,感觉到那个女孩的狡猾。我不愿做那样的人,将来也不希望输给那样的人。爱情,是一门比数学还难的学问,好在是门选修课,没有人逼我学,更不用考试,我可以选择放弃不修。 June 08 在佛祖面前求了一千年的女孩在佛祖面前求了一千年的女孩 --让我有点想哭的文章 有个年轻美丽的女孩,出身豪门,家产丰厚,又多才多艺,日子过得很好,媒婆也快把她家的门槛给踩烂了,但她一直不想结婚,因为她觉得还没见到她真正想要嫁的那个男孩。直到有一天,她去一个庙会散心,於万千拥挤的人群中,看见了一个年轻的男人,不用多说什么,反正女孩觉得那个男人就是她苦苦等待的结果了。可惜,庙会太挤了,她无法走到那个男人的身边,就这样眼睁睁的看著那个男人消失在人群中。後来的两年里,女孩四处去寻找那个男人,但这人就像蒸发了一样,无影无踪。女孩每天都向佛祖祈祷,希望能再见到那个男人。她的诚心打动了佛祖,佛祖显灵了。 佛祖说:“你想再看到那个男人吗?” 女孩说:“是的!我只想再看他一眼!” 佛祖:“你要放弃你现在的一切,包括爱你的家人和幸福的生活。” 女孩:“我能放弃!” 佛祖:“你还必须修炼五百年道行,才能见他一面。你不後悔??” 女孩:“我不後悔!” 女孩变成了一块大石头,躺在荒郊野外,四百多年的风吹日晒,苦不堪言,但女孩都觉得没什么,难受的是这四百多年都没看到一个人,看不见一点点希望,这让她都快崩溃了。 最後一年,一个采石队来了,看中了她的巨大,把她凿成一块巨大的条石,运进了城里,他们正在建一座石桥,於是,女孩变成了石桥的护栏。 就在石桥建成的第一天,女孩就看见了,那个她等了五百年的男人!他行色匆匆,像有什么急事,很快地从石桥的正中走过了,当然,他不会发觉有一块石头正目不转睛地望著他。男人又一次消失了。 再次出现的是佛祖。 佛祖:“你满意了吗?”女孩:“不!为什么?为什么我只是桥的护栏?如果我被铺在桥的正中,我就能碰到他了,我就能摸他一下!” 佛祖:“你想摸他一下?那你还得修炼五百年!” 女孩:“我愿意!” 佛祖:“你吃了这么多苦,不後悔?” 女孩:“不後悔!” 女孩变成了一棵大树,立在一条人来人往的官道上,这里每天都有很多人经过,女孩每天都在近处观望,但这更难受,因为无数次满怀希望的看见一个人走来,又无数次希望破灭。不是有前五百年的修炼,相信女孩早就崩溃了!日子一天天的过去,女孩的心逐渐平静了,她知道,不到最後一天,他是不会出现的。又是一个五百年啊!最後一天,女孩知道他会来了,但她的心中竟然不再激动。 来了!他来了!他还是穿著他最喜欢的白色长衫,脸还是那么俊美,女孩痴痴地望著他。这一次,他没有急匆匆的走过,因为,天太热了。他注意到路边有一棵大树,那浓密的树荫很诱人,休息一下吧,他这样想。他走到大树脚下,靠著树根,微微的闭上了双眼,他睡著了。女孩摸到他了!他就靠在她的身边!但是,她无法告诉他,这千年的相思。她只有尽力把树荫聚集起来,为他挡住毒辣的阳光。千年的柔情啊!男人只是小睡了一刻,因为他还有事要办,他站起身来,拍拍长衫上的灰尘,在动身的前一刻,他回头看了看这棵大树,又微微地抚摸了一下树干,大概是为了感谢大树为他带来清凉吧。然後,他头也不回地走了! 就在他消失在她的视线的那一刻,佛祖又出现了。 佛祖:“你是不是还想做他的妻子?那你还得修炼。” 女孩平静地打断了佛祖的话:“我是很想,但是不必了。” 佛祖:“哦?” 女孩:“这样已经很好了,爱他,并不一定要做他的妻子。” 佛祖:“哦!” 女孩:“他现在的妻子也像我这样受过苦吗?” 佛祖微微地点点头。 女孩微微一笑:“我也能做到的,但是不必了。” 就在这一刻,女孩发现佛祖微微地叹了一口气,或者是说,佛祖轻轻地松了一口气。 女孩有几分诧异:“佛祖也有心事?” 佛祖的脸上绽开了一个笑容:因为这样很好,有个男孩可以少等一千年了,他为了能够看你一眼,已经修炼了两千年。” June 06 德川同志说。。。一直比较喜欢德同志
不过一般对于他的东西都是写来交作业的
虽然我很少写作业吧。。。。
今天在作式样的时候突然想起来了。。
恩恩。。总结下。。。
我个人尤其喜欢这个:
人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべから ず。不自由を、常と思えば不足なし。心に望みおこらば、困窮 したる時を思い出すべし。堪忍は、無事長久の基。怒りは敵と 思え。勝ちを知りて、負けを知らざれば、害その身に至る。己 を責めて、人を責むるな。及ばざるは、過ぎたるに勝れり。
日本战国时代(公元1480年至公元1590年)的三大传奇大名之一的德川家康(大名即诸侯,另外两人为織田信長、豐臣秀吉),打败众敌,完全统一日本,建立了日本历史上最后的将军幕府「江户幕府」。自德川家康之后,他的后代“挟天子以令诸侯”统治日本260多年,直至明治维新为止。
德同志OVER前说。。。
人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。 人的一生有如负重致远,不可急躁。
不自由を、常と思えば不足なし。心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。 以不自由为常事,则不觉不足。心生欲望时,应回顾贫困之日。
堪忍は、無事長久の基。 心怀宽恕,则能无事长久。
怒りは敵と思え。 视怒如敌。
勝ちを知りて、負けを知らざれば、害その身に至る。 只知胜而不知败,必害其身。
己を責めて、人を責むるな。 责人不如责己。
及ばざるは、過ぎたるに勝れり。 不及胜于过之。
另外
"杜鵑不啼" "杜鵑不啼"故事通過對日本戰國時代三位傳奇英雄對杜鵑的不同態度非解釋他們的個性差異,但是主要是為了襯托表現德川家康的不凡忍耐性格。一隻杜鵑不唱歌。豐臣秀吉說:「如果杜鵑不唱歌,我會想辦法讓它們唱」;織田信長說:「如果杜鵑不唱歌,我就殺了它們。」德川家康卻說:「如果杜鵑不唱歌,我會等著它們唱」;德川家康正是靠著這種忍術得以出人頭地。 June 02 鎮西、戦国通史九州は、織豊政権を生み出した畿内とその近国と違い、名主は小地頭として百姓たちを支配し、東国から派遣された惣地頭とともに、早くから領主化し在地領主として発展していた。しかも、九州が荘園領主の直接支配から比較的自由であったことから、島津・大友・少弐氏のような鎌倉以来の守護に根強い存在を許すとともに、少弐氏を除いて、守護大名から戦国大名への発展を可能としたのである。
このように九州は、名主の武士化・家臣団化を強く推し進め、いわゆる下剋上によって戦国大名となった畿内とその近国と異なり、鎌倉以来の古い伝統をもつ守護がそのまま戦国大名となったのである。 九州の戦乱 南北朝期、菊池武光は征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎えて筑後に進出し、足利・一色・少弐ら武家方の内紛に乗じて九州全土に武威を奮った。 なかでも正平十四年の大保原合戦(筑後川の戦)は、宮方と武家方とが九州を二分する決戦だったが、武家方は武光の夜襲で敗れ、正平十六年には大宰府をおさえ、同二十年には征西府を置いた。かくして、武光は九州における南朝の最盛期を現出したのであった。 室町時代になると鎮西探題の支援を得た大内義興の勢力が北九州にまで伸びてくるようになり、九州の少弐・大友氏らと筑前・豊前に戦いが繰り返された。とくに筑前を基盤とする少弐と大内氏との争いは繰り返され、少弐氏は次第に圧迫されるようになった。そして、少弐政資が大内義興の軍に破れると、政資は殺され、資元が大友氏を頼って失地回復を図ったが失敗。永禄二年(1559)正月、少弐頼忠の孫冬尚が龍造寺隆信に攻められて討死を遂げ少弐氏は滅亡した。 大内氏の全盛時代を現出したのは義興の子義隆で、大永四年(1524)以来、父に従って安芸に出陣し、尼子氏とたびたび戦った。天文元年(1532)から少弐・大友氏と豊前・筑前・肥前の各地に戦い、同四年三月に豊後の大友義鑑と和して、ほぼ九州の北部を制圧した。しかし、天文二十年八月に重臣陶隆房は大内氏の重臣杉重知・内藤興盛らを味方にひきいれて、山口の築山館に義隆を襲った。 義隆は山口を逃れて長門国美祢郡の岩永へ落ち延び、さらに大津郡の瀬戸崎から海路を逃れんとしたが、おりからの激しい風波に阻まれてそれも果たせず、長門深川の大寧寺に引き返して自刃し、大内氏没落した。義隆の死後は、陶晴賢によって、義隆の甥にあたる大友晴英が豊後から入って大内氏を継ぎ、名を義長と改めたが、実権は陶晴賢が握った。 弘治元年(1555)十月、晴賢が安芸の厳島で毛利元就と戦い敗れて討たれたあと、防長両国は混乱して収拾がつかず、義長は周防郡に侵出してきた毛利氏に追われて長門の且山城に走り、同三年三月に長府の長福寺で自殺した。ここに大内氏は完全に滅び、防長両国は毛利氏の領有するところとなった。 やがて、関門海峡をはさんで毛利氏と大友氏は対峙するようになる。 永禄十年(1567)毛利氏に通じ筑前で反乱を起こした秋月種実、高橋鑑種等の鎮圧の為筑前に派遣され、七月に高橋鑑種の属城筑前岩屋城を攻め落とした。ついで九月、種実の夜襲を受けた「休松の戦い」で大友勢は苦戦するが、鑑連はあらかじめ夜襲に備えていたので、敗走する吉弘、臼杵の友軍を援けながら秋月軍の猛追をかわし筑後へ撤退した。 翌十一年(1568)「西の大友」と称された立花鑑載が大友宗家に反旗を翻した。鑑連は、吉弘・臼杵の軍とともに筑前糟屋郡に攻め入り、同年七月に立花城を攻略し、鑑載を討った。しかし、翌年(1569)大友氏による肥前の龍造寺隆信討伐の隙に立花城が毛利勢に包囲され、立花城の城兵は毛利に降伏した。 この後、立花城をめぐって大友軍と毛利軍は睨み合い、五月、多々良浜に於いて両軍が激突。大友方は毛利軍の勢いにおされ、敗軍の様相をみせはじめた。この時、鑑連は長尾に布陣する小早川勢が手薄なことを見てとり、自ら太刀を揮って敵陣を強襲して毛利軍を敗退させ戦況を挽回、大友軍を勝利に導いた。 元亀元年(1570)、大友氏の肥前侵攻に対して竜造寺氏は「今山合戦」において、大友氏の大軍を撃退。ここに、龍造寺隆信の名声があがり、肥前一国を従えた隆信は、さらに兵を筑後・肥後・豊前などに進め、大友・島津と九州を三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出したのである。 九州戦国三強 ●大友氏の場合 大友氏は豊後地方に土着し、初代能直、二代親秀の代に詫摩・一万田・志賀・田原・戸次らの一族諸家を創出し、ここに大友一族各家が成立した。南北朝の内乱以後、大友宗家は、これら一族各家のうち本家に忠実な有力庶家に支えられながら、直臣団の強化と遣明貿易からうる経済力などによって、巧みに守護領国体制を展開した。 九代氏継以降、弟親世系との間にしばらく両統交立がみられたが、義長のころになると長子単独相続制が確立し、大友宗家の権力が強化された。さらに、義長の時代には、庶家や譜代直臣(同紋衆)のほかに、他姓衆である在地領主の家臣団化が推進され、次の義鑑の時代になると、大友一族六十家・他姓一族百家からなる大友家臣団が成立し、戦国大名へと発展した。 義鎮の時代になると、分国の拡大が急速に進められ、一時大友氏は、豊前・豊後のほか、筑前・筑後・肥前・肥後の六ケ国を版図に加える勢いを示したのである。こうした分国の拡大に伴い、戸次氏の筑前立花移封にみられるように、同紋衆を現地に派遣し城督に任命して、征服地の掌握につとめた。しかし、立花移封後の戸次氏は、大友氏の意図とは裏腹に、次第に独自的な分権権力としての性格を強めていった。 また、大友氏は家臣団の編成において、在地領主の地域的な結合単位である一揆や衆中を支配の基盤とし、有力家臣に対しては、所領に対する検断不入の原則を認めたり、夫役免除の特権を与えるなど、分国に対する土地所有権の掌握はきわめて不十分であった。 ●龍造寺氏の場合 少弐氏にかわって台頭した肥前の龍造寺氏は、水ケ江龍造寺系の隆信が本家の村中龍造寺家を相続したのち、北九州の計略をめぐる大内→毛利氏と大友氏の対立を利用して急速に勢力を拡大した。特に元亀元年(1570)、大友氏の大軍を佐賀で敗北(今山合戦)せしめた隆信は、まず、大友氏の勢力圏にもっとも近い東部肥前を平定し、次いで大友氏の与党の多い北部肥前を降し、さらに西部・南部肥前に進出して、天正六年までに肥前制覇を完了した。 さらに隣接諸国に対する経略をただちに開始し、こうして天正八年までに筑後一国のほか、肥後・筑前の半国および豊前三郡を征服し、今山合戦以来わずか十年の間に、いわゆる「五州の大守」に発展したのである。ここに、龍造寺・大友・島津の三氏鼎立時代を迎えた。 龍造寺氏の征服地に対する支配の仕方は、佐賀地方を中心とする肥前八郡に対しては、有力な在地領主との養子縁組み政策や、龍造寺・鍋島一族の要地配置を通じて、強力な支配権を打ち立てたのに対し、多良山脈以西・以南の肥前三郡に対しては、松浦・大村・有馬氏らの戦国大名などから起請文を懲し、あるいは人質を提出せしめるなどにとどまり、その支配の実態はきわめて脆弱な基盤の上に立っていた。 特に肥前以外の分国においては、龍造寺氏の麾下に属した在地領主の離反、家臣化が繰り返され、これまたきわめて不安定な基盤の上に立っていた。こうした傾向は、薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津氏の北上とともにいっそう著しくなってくる。 ●島津氏の場合 島津氏台頭の基盤となった南九州は、遠隔地型の荘園体制のもとにあって独自の在地構造を持っていた。しかも在地領主の力が強く、小地頭と惣地頭の内紛も激しいものがあった。なかでも島津氏の守護領国制の展開をいっそう困難にしたのが島津一族の内訌である。島津氏は、初代忠久以来十代忠国までの間に、若狭・越前・伊作・総州・奥州・薩州・豊州・相州の各島津家のほか、山田・町田・伊集院・新納・樺山・北郷・川上氏らの一族庶家を創出した。 このうち、総州島津氏(七代伊久)と奥州島津氏(八代元久)との間に争いが起こり、足利幕府は、応永十一年(1404)両者を和解せしめ、元久に日向と大隅、遅れて薩摩の守護織を与えた。ところが元久が没すると、今度は元久の弟久豊と伊集院頼久との間に不和が生じ、両者は諸所において合戦、一進一退ののち、久豊は頼久を制圧した。しかし、島津一族の内訌は絶えず、これに国内勢力である在地領主との軋轢が加わって、三州は対立と分裂に明け暮れた。特に忠治・忠隆・勝久の三代の間は、いずれも幼弱で、守護家の権威を凋落し、島津氏の冬の時代であった。 こうしたなかで、島津本家を再興し三州の統一に成功したのが伊作島津氏の貴久である。貴久は大永六年(1526)守護家を継いでより、一族間の内訌に終止符を打ち、子の義久・義弘・歳久・家久らの協力によって、島津氏雄飛の基礎を作った。まず薩摩・大隅を固めて、菱刈・渋谷・肝付らの有力な在地領主を降し、他方、日向は、豊州島津忠親の協力によってこれを収め、ここに三州の統一に成功したのである。 島津氏はこの過程を通じて、群小の在地領主を家臣団に編成しながら、外城制という独特な在地支配の方法を用い、外城支配下の衆中には、島津氏の直臣団を配置して、城下の麓に居住させ、外城の軍事力を構成するとともに、農村支配も担当させた。 こうして島津氏は、強力な在地支配の体制と、それを基盤とする戦国大名権力を作り上げた。そこに、大友氏や龍造寺氏との権力構造の違いを見い出すことができる。 三すくみ体制の止揚 三州を統一した島津氏は、豊後より南下してきた大友氏と対立したが、天正六年(1578)、これを日向の高城(耳川合戦)で破り、これより大友氏は守勢に立たされた。龍造寺隆信の筑後経略は、この間隙を縫って進められたが、その結果は龍造寺氏と島津両氏の対立となった。 島津氏は、日向から肥後に進出したが、龍造寺氏は、鍋島直茂以下の主力を肥後に派遣する一方、筑前に進出して西南九郡を領有し、さらに龍造寺信周を豊前に派遣して北三郡を平定し、その勢力をもって島津氏に対抗したのである。 筑後の在地領主の龍造寺氏からの離反は、このころから著しくなった。天正八・九年の蒲池鎮並、翌十年の田尻鑑種の離反がそれを代表する。こうして、天正十二年三月、龍造寺・島津両氏は全面対立したのである。隆信は鍋島直茂の諌言に耳を貸さず、大軍を率いて高来に南下したが、戦場においても直茂の戦術を突如変更し、みずから中央突破をこころみて、島原沖田畷で戦死した。 隆信の戦死によって九州の政治地図は大きく変化した。龍造寺・大友・島津三氏の均衡関係が崩壊したのである。龍造寺氏は、隆信の嫡子政家が家臣鍋島直茂の補佐によって、ようやく旧領を保守する有様となった。直茂は、隆信の死後活発となった大友氏の動きに対抗して、筑後の防衛を固めた。ところが、大友方の強力な反撃の前に、筑後の諸士は多く大友方に帰参した。当時、八代にあった島津義弘は、三州の大軍をもって北上し筑後に侵攻した。こうして、龍造寺・大友・島津三氏の最後の攻防戦は筑後を舞台に展開されたのである。 天正十三年(1585)、まず大友氏が龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって敗北した。ところが翌十四年における筑紫広門の島津離反をきっかけに、島津軍は筑前・肥前に討ち入って広門を降し、高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城を攻撃した。このとき、紹運は自刃したが、宗茂は立花城に籠って最後まで抵抗した。 ここで、島津氏は筑前平定と豊後討伐を評議して結果、後者を優先させることとし、大友氏の本拠豊後に突入した。すでに大友氏が豊臣秀吉に救援を求めていたからである。大友宗麟の子義統は、島津軍の全面攻撃を受けて豊前に逃れ、豊後は島津氏の支配下に入った。 こうして三州を統一するのに五十一年を要した島津氏は、三州統一後わずか十年の間に、中世以来の三すくみの体制を止揚させ、ほぼ全九州を制覇することに成功したのである。 九州戦国大名の終焉 天正十三年(1585)、四国平定を完了した秀吉は、島津氏に対し大友氏との講和を命じたが、島津氏は、これを拒否して大友氏を攻撃したため、ついに秀吉は島津征伐を意図し、同十五年、大軍を率いて九州に出陣した。ここで全九州の大名は、秀吉に帰参するか島津氏に味方するかの二者択一の立場に立たされたが、立花宗茂・鍋島直茂をはじめ、北および中九州の大名は、いっせいに立ち上がり、秀吉に帰参して島津攻撃軍に加担した。こうして、島津軍は総崩れとなり、鹿児島に退いて降伏した。 秀吉の九州平定によって。九州は豊臣権力を中心とする新しい幕藩体制の支配のなかに組み込まれ、九州の戦国大名は、ここで一挙に近世大名に推転し、いわゆる大名領国制が全面的に開始されることになった。 ■九州に名を響かせた戦国大名 大友氏 戦国期、義長・義鑑・義鎮の三代で、戦国大名としての成長を遂げ、薩摩の島津氏、肥前の竜造寺氏と九州を三分する勢いであった。なかでも大友氏の全盛を築いたのは義鎮で、豊後.豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の六ケ国と伊予・日向の半国に大名領国制を展開した。 義鎮は入道名の宗麟の方が知られている。有馬晴信・大村純忠とならぶキリシタン大名でもあった。天正六年、豊後より南下の軍を起こしたが、日向の高城(耳川合戦)で島津氏と戦い敗れ、大友氏は守勢に立たされることになった。そして天正十三年、筑後において龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって大友軍は敗北した。翌十四年、島津氏は大友氏の本拠豊後に突入した。大友軍は島津氏の全面攻撃をささえきれず、豊後は島津氏の支配下に入った。 龍造寺氏 龍造寺胤信は宗家・胤栄の未亡人と結婚し、惣領家の家督を継いだのである。天文十九年に、大内義隆の偏諱を受けて隆信と名を改めた。 その後、隆信は大友宗麟と戦わねばならなかった。宗麟が肥前国の守護職を得て、肥前への進出を狙ったためである。決戦は永禄十二年(1569)に行われ、家臣鍋島信昌の活躍によって大友軍の将大友親貞を討ち取ることができた。 ここに、龍造寺隆信の名声があがり、信昌の武名が知れ渡ることになった。肥前一国を従えた隆信は、さらに兵を筑後・肥後・豊前などに進め、大友・島津と九州を三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出したのである。 島津氏 三代久経、四代忠宗のころから盛んに庶子が分立し、室町時代にはそれら庶氏家が独立して大名化する動きもあり、宗家としての島津氏の威令が及ばないということもあった。そして、勝久の代に忠良を迎え国事を託し。忠良の活躍によって、忠良の子貴久が宗家を継ぐことになった。この貴久が戦国島津氏の基礎を築くことになった。貴久のあとを継いだ嫡男の義久は三人の弟の協力を得て、大友氏・龍造寺氏と覇を競い、島津氏を九州最大の戦国大名に成長させたのである。 しかし、秀吉の島津征伐に敗れ、義久が薩摩一国を、弟義弘が大隅・日向二国を安堵された。そして、関ヶ原の合戦では西軍に属し、薩摩のみとなってしまった。 大内氏 大内広世のとき、周防の統一を成し遂げ、さらに長門の厚東氏を討って防長二国に覇を唱え、二代将軍足利義詮に仕えて、周防・長門・石見の守護職に任ぜられた。その子義弘は、九州深題今川了俊に従って九州に下向し、さらに明徳の乱では山名氏清の討滅に功を挙げ、周防・長門・石見はもとより、豊前・和泉・紀伊の六ケ国の守護職を兼ねる大勢力にのし上がった。 義興の代には足利将軍義稙の管領代にまでなっている。大内氏の全盛時代を現出したのは義興の子義隆で、領国も周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七ケ国の守護を兼ねる中国・九州の一代勢力となり、日明貿易を通じて、その富力も抜群だった。ことに、重臣たちを、たとえば陶氏が周防守護代、内藤氏を長門守護代、杉氏を豊前守護代にというように配し、領国支配にあたっていたが、ついには、そうした守護代の下剋上によって家を滅ぼされることになる。 毛利氏 毛利氏が戦国大名へ転化をとげたのは元就のときからである。元就は大内氏と尼子氏に挟まれ、結局、大内氏の傘下となって勢力を維持することになった。天文九年尼子晴久の兵を郡山城に破って武命を挙げ、三男隆景を小早川氏の養子に、次男元春を吉川氏の養子に入れて態勢を固め、天文二十四年大内氏を下克上によって倒した陶晴賢と安芸厳島で戦い、これに大勝した。 その後、大内義長を滅ぼし、ついで尼子氏を降し中国十一ケ国を領する戦国大名にのし上がった。北九州の門司城と立花城をめぐる大友氏との攻防は双方知略を尽くした戦いとして知られている。関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の主将となり、その責任をとらされて防長二国を領するのみとなってしまった。 少弐氏 鎌倉時代のはじめ、武藤氏が大宰少弐の職を世襲することになり、ついにはその官職名を苗字とするようになった。そもそも少弐氏は藤原秀郷の後裔といわれている。文永・弘安の役に経資・景資兄弟が大活躍をし、特に景資は九州の守護・地頭を指揮して敵将の劉復亨を討ち取るという殊勲を挙げている。 室町時代になると探題の支援を得た大内氏の勢力が北九州にまで伸びてくるようになり、少弐氏は次第に圧迫されるようになった。大内・少弐の争いは繰り返され、政資が大内義興の軍に破れると、政資は殺され、資元が大友氏を頼って失地回復を図ったが失敗。 天文三年、大内・少弐の和睦がなり、資元は自殺。その後、竜造寺氏が大内氏に味方して、少弐冬尚と戦うようになり、竜造寺隆信に追われ、筑後に逃亡、回復を図ったが成らず、少弐氏は滅亡した。 秋月氏 秋月氏は大蔵氏を遠祖とする。春実より七代の孫、種雄は「秋月家譜」におれば、「種雄賜封筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とある。すなわち、種雄が源頼家の時代に秋月荘を賜って、地名によって秋月を称したという。 種朝のころ、中国・九州が騒乱、少弐・筑紫・大友三家が秋月城を襲い攻めた。種朝は城を出て一戦を遂げ、三家の大軍を突き破り、二千余人を討ちとって、大勝利をおさめている。種朝の子種時も、少弐・筑紫らが筑後国中の兵を率いて領内を掠略するのに、筑前国にて合戦し、大いに勝利をえている。 天正六年(1578)、大友氏が日向高城、耳川で島津氏と戦って大敗すると、秋月種実は島津氏に与して最盛期を迎える。その勢力は十一郡、二十四城を数え、石高にして三十六万石という大勢力となった。 菊池氏 南北朝期の菊池武光は征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎え、九州南朝方の中心として活躍している。武光は足利方の少弐氏と戦い、九州探題の一色氏・斯波氏を破り、大宰府をおさえて、九州における南朝の最盛期を現出した。 戦国期にいたり、豊後の大友氏が、肥後の阿蘇氏・相良氏と結び、菊池氏の家督争いに介入しはじめたのである。永正三年、政隆は、大友氏との戦いに出陣したが、その留守中に大友氏と結んだ家臣が反乱を起こし、政隆は当主の座を追われ、阿蘇の大宮司であった阿蘇惟時(武経)を家督に迎えた。 しかし、武経の時代は長く続かず、大友氏によって、武包が後を継ぎ、武包が天文元年に陣没すると、家督は大友義長の二男、すなわち義鑑の弟義武へと代えられて、完全に大友氏の傘下に組み込まれることになった。 伊東氏 祐堯のころから次第に強大となり、義国の代になると、飫肥城をめぐる島津氏との争いが頻繁に行われるようになり、特に文明十六年と翌年の戦いは戦史に残っているほどだ。その後、義祐の代になってからもたびたび飫肥城の争奪戦が伊東・島津両氏の間で繰り広げられた。ついに、永禄十一年にいたり、島津忠親は城を伊東氏に明け渡し、そこで義祐は子の祐兵に守らせた。この祐兵が義祐の跡を継いで、戦国大名伊東氏の中心となる。 祐兵は天正六年、大友宗麟と連合して島津義久・家久と耳川に戦っている。島津軍と大友・伊東連合軍は耳川だけでなく、名貫原・小丸川畔の高城でも激突している。この戦いで大友軍の先遣隊は島津軍に大敗北を喫し、結局、祐兵は上京し秀吉に仕えた。 ■九州の戦国大名、有力国人
■鎮西、戦国武将家紋地図 北九州の戦国大名および武将の家紋を見ると、筑前では大蔵氏一族の原田氏が三つ引両、秋月氏が撫子紋を用いている。そして、鎌倉時代からの名族少弐氏の寄せ掛目結紋は『蒙古襲来絵巻』にも描かれている紋としても知られている。筑後では、星野氏が亀甲に三枚笹、黒木氏が違い鷹の羽を用いた。黒木氏の鷹の羽紋は、阿蘇神社を信仰したものであろう。 ■鎮西合戦記
龍造寺氏、大友氏を破り、九州三強への途を開く。
かつての北九州の三強といわれた大友・少弐・大内三氏のうち、少弐氏・大内氏は、龍造寺・陶氏らその家臣によって滅ぼされた。そして、北九州最大の勢力大友氏と新興勢力・龍造寺氏との間に緊張が走るようになる。
■今山の合戦-要図
-------------------------------------------------------------------------------- May 17 严重怀疑自己是天蝎座最近抽风
要分析自己的性格
网上找了很多星座资料
关于蝎子
发现自己非常不像蝎子。。。
不管了
先把资料搬上来
慢慢分析:
天蝎座的工作风格:
天蝎座的人多少有点神秘感,凡事自有主张,不喜欢别人过问自己做事的方法,所以对古板的规章制度常常很不耐烦。不过因为他们工作的时候一向冷静又有效率,所以成果通常都比预期的好,久而久之大家都愿意让他们自由发挥。
天蝎座的人意志非常坚定,甚至有点固执,一旦设定目标就不会轻易放手,也不会心猿意马,东一榔头西一棒子。他们会花很多时间布局、等待,最后一举成功。因为他们生性内向,做事谨慎,所以很少出现冒险的举动,稳扎稳打才是他们成功必胜的秘诀。
天蝎座的人平常很冷静,但仍具有水象星座情绪化的特征。他们平常可以和人保持平稳的关系,但是如果发现有异物或不顺眼的人当道,他们绝对不会善罢干休。 (没那么狠吧。。)
PC高手专长:
天蝎座:学3D绘图
神秘的天蝎座总是让人摸不着他究竟对电脑的知识懂多少,别人向他请教的时候,他总是闪烁着一丝微笑或面无表情说:“这很简单啊,书上有啊。”不过千万别怀疑,天蝎的逻辑能力很强,对于一般软、硬体的知识下了很多功夫在准备,建议蝎子可以先从重逻辑能力的3D绘图着手。 (为什么我要抽风作软件。。。) 天蝎座
这些人天生有一种雍容大方的气质,希望别人看得起他(她)。所以即使自身出身贫寒,他(她)也会让自己有种不卑不亢、凡事不害怕的态度,很从容,有大将之风。 (真是没看出来)
天蝎座 权力为重心,野心大。所以天蝎座的人必须独自成功,一旦订下目标,不达到不罢休,但提防内心的报复性格。 (这么可怕的人。。。在哪??/)
天蝎座33分
天蝎座爱情不专的可能性极低。除非是你主动离开他,或是一些特殊状况,他决不会不忠於你。若有的话,那表示他对花心的对象是真心的。 天蝎座——付出真心就会往前迈进,奉献一切,紧紧束缚住对方
天蝎座成熟而性感的魅力会化成适度的柔情,使人忍不住想接近。但是你并不会因为第一印象或表面化的交往而喜欢一个人,总要等了解了他的性格和兴趣、SENCE之后,才会慢慢地产生好感。你会花上一段时间确认他适合自己之后才展开攻势。你有很多种方式让他对你回头多看几眼。天蝎座的人只要一燃起雄心,任谁都阻止不了。一旦成为恋人,你会给他所有的一切,诚实而热情地奉献。但是,另一方面你的嫉妒心也相当可怕,对方多半都会受不了而退缩。如果你想留住爱人,就要记住不要束缚他。 天蝎座爱情评价:爱恨分明的情人
谁都知道天蝎座所拥有的妒忌心,在恋爱时的任何一种情况下,都会展露出来。那是因为不精通恋爱的性格所致,不会移情别恋只专心於一人的专情之星座。天蝎座的热情像是快要喷出岩浆的火山,但在表面上却完全看不出来。只要进展到恋爱关系时,没有别的星座能比天蝎座更强烈了但因在外观上表现非常的文静,所以寻求恋人时很费时,更不敢轻易的踏入第一步,天蝎座是深藏强烈妒忌心的星座。 (妈呀。。。。) 星座死穴
4、“瞧不起他的工作和收入”巨蟹座、天蝎座。
巨蟹座和天蝎座都是以成为有钱人为目标,他们心里已经有一些计划和一些想法,巨蟹座虽表面很和气,但是其实他认为成为有钱人才能成为贵族,他是一心一意朝这目标打拼,因此他对事先瞧不起他的人会非常歇斯底里,非常的情绪化,天蝎座的骨子里非常心高气傲,即使在逆境当中他也会告诉自己要咬牙撑下去,因此他对于自己都能忍了而对方却把他点破,这会让天蝎座非常不能忍受,这时不管他有多爱对方,他都会马上翻脸走人。 (。。。。。。。。。。。。。。。)
8.天蝎座…以为滥货是极品
天蝎座的女生爱上一个人就会替对方找理由,如果要有人说另一半不好,她都会一一的为对方辩解,只有当双方分手之后,天蝎女清醒之后才会发现原来对方有多糟糕,可是在这之前她真的都把对方当成极品,所以有的一切在她眼中都是好的。 (完了我。。。。)
天蝎座:找不到动力
天蝎座的女生很会减肥,关于减肥这件事情她毅力惊人,可是要有一个目标让她去努力,要不然自信的天蝎女认为自己其实胖也很可爱。 (动力。。。) 星座论坛灌水的心态:
天蝎座
天蝎座想灌水的时候就灌水,本着我是天蝎我怕谁的意思,不用理会别人的看法,自己开心就好。 星座美女产品代言人
天蝎美眉的冷艳、神秘,她们在护肤、洁齿和内衣广告等上面都很占优势,无奈在其它星座捷足先登的情况下,不得不卸下高傲的外表参与一般的制作。然而皇天不负有心人,某天一唇膏系列品牌在寻找代言人途中,意外遇上本来饰演小角色的天蝎美眉,导演被其性感双唇深深迷住,立马决定拍板让天蝎美眉担任唇膏代言人,果然入木三分!
(糖葫芦广告应该不错)
天蝎座
敏锐的天蝎们总有一种直觉,就是觉得自己能从平凡的食物中提炼出特别的东西来,他们会尝试着用牛肉来煮汤,再下点蒜头,再下点南瓜,也许还会再下点咸鱼吧?(以下省略九千九百九十九项)……然后,天蝎们的下一步就是再制作一道迷魂汤,让情敌把她刚才煮的那一锅牛肉蒜头南瓜咸鱼什么什么汤喝下去,看你死不死! 结论。。。
我是神经病。。。
没事看这个。。。
May 16 消极怠工。。。发个小牢骚。。。破鬼子!! 没事就折腾改式样 改改改,当初设计的时候干吗不一步到位!!! 现在一堆人跟神经病似的凑在一起3天一大会1天3个小会的商量修改方案 开会开的我都上火了!!! 可惜已经翻译好的发给中方的式样书啊!!! 又得跟着改!!! 哼!! 惹急了我重写!!! 还有 本来是JAVA的项目 环境什么都弄的是JAVA的 您一高兴移行到.net!!! .net我跟瞎子似的!!! 你们说那么多我都没明白呢!!! 还就给3天时间让我全都熟悉!!! 还要出方案,还要对应悬案!!! 我连猪跑都没见过呢 你就让我写篇猪的说明文!!! RIBENGUIZI都是疯子!! (鉴于我MSN上有不少RIBENGUIZI。。。我不能用汉字和英文。。) 要我命啊 掐死我算了!!! 多西德多西德多西德多西德多西德多西德 怨念!!!! 哪天我就投虚自尽!!! 然后变成怨灵出来弄死你们!!! May 15 [注意]j-test
May 07 人活着到底累不累?这个问题我想了很久
有时候觉得活着真幸福
尤其是在我看完比较恐怖比较悲惨的东西后
有时我觉得心力交瘁
好象很艰难
心累。。。。
目前的我
状况混乱
不大顺心
但是事还是越来越多
遇到的坎也越来越多
有时候你们老问我
咋拉
不开心就说出来嘛
可,说出来管用么?
有些事情还是得自己面对啊
记得有句话
谁不是一边受伤一边学坚强啊
我虽然。。。。
经常很没用
遇到点问题就会哭
还常常求助
但是。。。
我在努力了
有的东西我也在面对
在奋斗
人活着为了得到什么就要做出一定的牺牲
不付出代价是得不到想要的东西的
这就是世界的等价交换原则
我也会一直坚信下去
总之告诉你们
我会好好的
我不知道我能坚持多久
走多远
但我知道我很坚强
好了
就这样吧
9号我要暂时离开这片土地了
但是。。。
我一定会回来的。。。
May 03 笑ってバイバイを言ってね5月4日。。
笑ってバイバイを言ってね
なぜながら、
涙を、見せたくないよ
だから、
見送りなんか、
したくない
雪のように
しずかに、
しずかに。。。
消えろ。。。
ずっと、ここで待ってる
いつの日か、会えるでしょう? April 28 人生は帰り道がない旅人はいつか歩いて始まる?
そして、いつか
いろいろな人とであって、別れて、
死んでいく。
それなら、最初生まれていなかったら、いいんじゃないの?
あたしって、良い子じゃなくて、あまり長所がないので、
親ががっかりでしょう。
でも、なにも言わずに、支えてくれて、本当にありがとうございました。
ずっと、そのままでいい。。。
でも。。。でも。。。
世の中に、永遠なものがないでしょう
分かれるのが怖い。。
怖い。。。
恋人もそうですよ
永遠な愛情がないでしょう
だから。。。
最初から愛なんか要らないよ。。
要らない。。
あたしの人生はいったんに出発したら
もとに戻らないよね。。
これで。。いいの。。
この旅はもう。。。
終る。。。
永遠な幸せに
おやすみなさい
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